(あえて、過激なタイトルをつけてみたが、まずは内容をよく読んでみてほしい。)
先月、地上波で放映された
「男たちのYAMATO」
そして。↓の曲はその映画からインスピレーションを受けた
妄想族(ラップ系グループ)の般若がつくったもの。
ラップなはずなのにどこか重い。
聞いているとなんともやりきれない気分になってくる。
自滅覚悟しながらも、行かなければいけなかった、おれたちと同年代の男たち。
それを見送るしかなかった、母親、父親。
こんな無念なおもいはもう彼らで終わりにしなければいけない。
そして、同時に彼らに素直に感謝しなければいけない。
今こうして何不自由なく暮らせている理由の一つに、彼らの死がある。
彼らの戦争責任を追求することは別の問題としてたしかに必要なことだ。
しかし、その前に立ち返って、感謝をしなければいけないのではないか。
感謝の話であえて出すが、靖国参拝もその一つだろう。
自滅覚悟の境地の心の救いとして、「靖国でみんなが御霊として崇めてくれる」と信じた、その気持ちを汲む心のゆとりがあってもよいはずではないか。
それがせめてもの恩返しになれば十分だ。
その上で日本政府はなぜ軍国主義に陥ったのかを議論すべきだろう。
これはいわば「公」と「私」の問題だ。
「公」としては中国や韓国などの被害国との関係問題。=戦争責任
「私」としては自分の祖父や祖母世代との関係問題。=感謝
これを使い分けることは何ら矛盾ではなく当たり前のことだ。
戦後教育に問題があると言われるのはこの点だと思う。
もちろん敗戦国として「私」の部分を語ることは不可能だった(そして今も)。
だから、せめて、教育とは関係のない部分では持ち続けていかなければいけない大事なものだ。
こんなことを言うと、戦争責任のことで頭がいっぱいの方々には「右翼的だ!」とか「ナショナリズムだ!」とかお叱りを受けそうだが、ここで俳優の窪塚の台詞を借りさせてもらう。
「右だ、左だ、というけど、鳥は両方の翼がないと飛べないという思いで、日々、生きています」